佐賀県吉野ヶ里遺跡「物見櫓からの景色が絶景!」③
前回の記事では、古代の弥生人が眺めたであろう物見櫓からの絶景を想像してみましたが、今回の記事では、復元した物見櫓に実際に登っててみました。
どうですか。佐賀県の風景は、というより吉野ヶ里の風景ですが、広いですよね。
この「吉野ヶ里」は東京ドーム11個分と推定されています。
日本で見張り台のことを”矢倉”というのは、矢を収める倉が見張り台を兼用する戦国時代の築城の発想からきている。と昔読んだ書籍にかかれていました。弥生時代には何と命名されていたのでしょう。
このすばらしい景色を眺めていると、古代ロマンの妄想があたまをよぎってしまいます。
そういえば、日本の歴史書「古事記」や日本書紀」には記されていない。「邪馬台国」とははたして存在したのでしょうか?
邪馬台国論争とは
2世紀~3世紀ごろの古代日本の様子を、古代中国の歴史書「魏志」倭人伝には、描かれています。その名も「邪馬台国」そして「女王・卑弥呼」や「金印」のことも記されています。
江戸時代から始まったこの「邪馬台国論争ですが」大きくわけて「畿内説」と「九州説」とがありそのどちらでもないという説もあります。
熊本県の近くや四国のどこかなどの説もあるようです。
邪馬台国、畿内説
奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむくいせき)は2世紀~4世紀前半にかけての遺跡で、「邪馬台国」の有力候補地の一つです。
邪馬台国、九州説
佐賀県吉野ヶ里遺跡は魏志倭人伝の記述と一致しているところもあるそうですが、今一つ決定打に欠けているそうです。
魏志倭人伝に記された、邪馬台国までの道のり
魏志倭人伝には、邪馬台国にたどり着くまでの道のりが記されています。
しかしそれもまだ記述が曖昧であるために解明されていません。
- 帯方郡より狗邪韓国 水行7000余里
- 狗邪韓国から対馬国 海渡1000余里
- 対馬国から一支国 海渡南に1000余里
- 一支国から末盧国 海渡1000余里
- 末廬国から伊都国 陸行東南に500里
- 伊都国から奴国 陸行東南に100里
- 奴国から不弥国 東へ100里
- 不弥国から投馬国 水行南へ20日
- 投馬国から邪馬台国 水行南へ10日、陸行1ヶ月
でもほら、北部九州の方にははおなじみの地名がありますね。
「対馬国」「伊都国」「奴国」などつまりここを通過したことだけは、間違いないですね。
いかがでしたか?今回は吉野ヶ里歴史公園の「物見櫓」に実際に登ってみたときに古代ロマンにふけってみたときのお話でした。
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