静御前の像
美しい容姿と才能に優雅さと勇気を併せ持った「静御前」。義経を最も信頼し愛した女性として知られ、義経の死後は心が折れ、生きる意欲を失い、出家して尼となったと伝えられています。
世俗から身を隠すように京都を去り、各地を放浪し、有名な山口県山口市「徳佐・片山」の笊笥庵で、母子と侍女とともに、その悲しい恋の幕を閉じたのです。
道の駅願成就温泉
山口県と島根県の県境に位置し、島根県鹿足郡津和野町からも近接している。1995年7月7日に日帰り入浴施設としてオープンし、2003年8月8日に道の駅の登録を受け、11月にリニューアルオープンした。通常の道の駅とは異なり、国道9号から少し山側に立地している。
平安時代末期に活躍した白拍子、静御前は京で有名だった白拍子・磯禅師の娘として知られています。源義経の妾として生きた静御前の、主を慕う心情は今も多くの人々の心に響いています。
雨を降らせた静御前の伝説
長期的な干ばつの年、京都では雨乞いの儀式が神泉苑で行われた。100人の白拍子が雨乞いの舞を踊ったが、雨は降らなかった。しかし、静御前が舞を踊ると、すぐに雨が降り始めたと言われている。この功績により、静御前は当時の天皇である後鳥羽天皇から舞衣を賜ったとされている。
静御前は平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した「白拍子」と呼ばれる女性芸人でした。白拍子は男性の装束を着て歌いながら舞う芸事を披露する者を指し、静は舞の名手として「日本一の白拍子」と称されていました。
よし野山 みねの白雪ふみ分けて いりにし人のあとぞ恋しき
義経と静御前が寒い冬の山道で別れ、離れ離れになった吉野山。義経への思いを静御前が率直に表現しており、心に響きます。
しづやしづ 賤のをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな
「おだまき」は織物製造に用いられる糸巻きのことです。「しず」は織物の名称で、自身の名前と掛けられています。
義経が繰り返し「静や」と呼んでくれたように、おだまきが糸を巻き上げるように、今は亡き義経の存在が懐かしく、愛おしく思われる。この歌には、もはや傍にいない義経への寂しさや思慕の念が込められています。
源の頼朝が激怒した歌と伝えられています。
静御前のお墓
山口市阿東徳佐の片山に静御前の墓所がある。この伝説は地域に古くから伝わっている。義経は1185年に都を落ちて吉野で静と別れ、以後再会することはなかった。義経が奥州に逃げると、頼朝は静を呼び出して義経の行方を尋ねた。1186年、静は母の磯禅師とともに鎌倉に送られた。静は義経の子を身ごもっていたが、頼朝に白拍子の舞を命じられ、義経への思いを詠んだ歌で怒らせ、男子なら殺すと言われた。生まれた子は息子で由比ヶ浜に沈められた。静は1189年4月に義経の死を知り、京に帰った。静御前の最期の地は全国に10ヶ所以上伝えられている。
静御前の墓があると伝えられている場所は日本各地にあります。
静御前の墓は、兵庫県淡路市、埼玉県久喜市栗橋、山口県山口市阿東、新潟県長岡市栃尾地域、福岡県福津市、香川県木田郡三木町中代、香川県木田郡三木町大字下高岡の願勝寺に存在すると伝えられている。
以前ご紹介した、「番長皿屋敷のお菊さん」も全国各地に候補がありました。
大昔の事なので検証は難しいのでしょう。
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