佐賀県立名護屋城博物館
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、豊臣秀吉は天下統一を成し遂げた後、海を越えて大陸への侵攻、すなわち朝鮮出兵を目指しました。そのための拠点として築かれたのが名護屋城です。現在、当時の建物は残っていませんが、広大な17万平方メートルの城跡には石垣が良好に残されています。国の特別史跡にも指定されている名護屋城跡や陣跡を巡るための起点となる名護屋城博物館を訪れ、当時の活気を感じ取りたいと思います。
佐賀県立名護屋城博物館は入場無料です。
受付のかたがとても感じが良かったです。
希望すれば、案内音声が聞けるヘッドフォンセットを貸し出していただけます。
もちろん無料です。
ボタンを順番に押していくとまるでガイドさんが隣にいるようなお得感が味わえます。
撮影はOK
一部の「撮影禁止」マークを除けば概ね撮影できます。
手を触れてはいけないものも結構ありました。
黄金の茶室
この博物館の超目玉展示ではないでしょうか
話だけなら、にわかに信じがたい「黄金の茶室」ですが、実際に復元したものを拝見すると、当時の秀吉や大名たちの想いが伝わる気がします。
豊臣秀吉の時代には、金や銀の国内産出量が大幅に増加し、その結果、秀吉のもとには莫大な富が集まりました。秀吉は天皇や公家、大名をもてなすために「黄金の茶室」を建造しました。彼の周りは豪華な装飾品で飾られ、大名や公家に金銀を配る「金賦り」や、金箔瓦や障壁画で自らの権威と財力を誇示していたようです。資料によれば、この茶室は1585年(天正13年)に初めて使用され、京都の御所や大坂城での使用を経て、1592年(天正20年)には秀吉が名護屋城に移動した際にも運ばれ、大名たちを招いた茶会や外国使節の接待に使用されました。
黄金の茶室と草庵茶室
約430年前、豊臣秀吉が大陸侵攻の拠点として築いた名護屋城は、軍事的な要塞だけでなく、茶の湯や能を含む多彩な桃山文化が栄えた「文化の拠点」としても機能しました。名護屋城には、秀吉が天皇に捧げるために作られた「黄金の茶室」が設置され、外国の使節や日本各地の大名や武将を招いて茶会が催されました。公式の場に用いられた「黄金の茶室」とは別に、秀吉の私的な空間である「山里丸」には、より個人的な「草庵茶室」も建てられました。この「草庵茶室」は竹製で、茶室開きは4日間にわたって行われたと記録されています。
秀吉が愛したこれら2つの茶室が復元され、令和6年3月に名護屋に再び姿を現しました。特に、「草庵茶室」は史上初の復元であり、そのユニークな存在として注目を集めています。
草案茶室
『佐賀県立名護屋城博物館』は古代の歴史や資料などの展示があり、書物などで読むよりも、より一層臨場感が伝わってくるようでした。
とりわけ、秀吉軍の軍艦もさることながら朝鮮側の軍艦の模型は見事で、秀吉軍が敗戦したことが、うなづけました。
秀吉軍の戦艦
当時の技術の最高水準の戦艦です。かっこいいと思いました。
朝鮮側の軍艦はさらに頑丈で、機能的に作られていました。
この差が、敗戦の原因なのかと目で見えて感じるところですが・・・。
実際にはどうだったのでしょうか?
歴史的にはまだ検証が進んでいます。
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、豊臣秀吉の「唐入り」とも言われ16世紀末に豊臣秀吉が朝鮮半島に対して行った二度の軍事遠征を指します。
文禄の役(1592年 - 1593年):
豊臣秀吉は、明(現在の中国)を征服するための足がかりとして朝鮮に侵攻しました。
日本軍は釜山に上陸し、首都漢城(現・ソウル)を占領しましたが、朝鮮の義兵や李舜臣率いる水軍の反撃に遭い、最終的には休戦に至りました。
慶長の役(1597年 - 1598年):
文禄の役の後の和平交渉が決裂し、再び出兵が行われました。
しかし、戦闘中に豊臣秀吉が病死し、日本軍は撤退しました。
この戦役は、朝鮮や明に甚大な被害をもたらし、豊臣政権の衰退を加速させる要因となりました。
教科書に書かれていることと真実の違い
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豊臣秀吉はとても素晴らしい武将です。歴史書に書かれていることが必ずしも真実とは限りません。さらなる歴史研究で真実が明るみに出ることを期待しています。
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