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にゃおタビ

にゃおゆきが山陰と地元九州を旅して感じたことを綴ったブログです。ついでに北九州市の周辺のグルメも紹介しています。

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福岡県の民謡【黒田武士】と名槍【日本号】のお話

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福岡県の民謡【黒田武士】と名槍【日本号】のお話

福岡県の民謡【黒田節】これは実話ですよ。 歌は子供のころから、知っていました。【黒田節】と【黒田武士】がダジャレになってるとか。 大きな杯と槍を持った【博多人形】とかが結構有名ですね。 主人公は母里友信【通称、母里太兵衛(ぼりたへえ)】 槍の使い手、酒豪で知られた黒田藩の武将の一人です。 黒田節で謡われた内容は、名槍「日本号」を同じく酒豪、豪傑、横紙破り*1の異名を持つ豊臣秀吉の荒大名で知られる「福島正則」から呑みとった逸話であります。

福岡県の民話シリーズ第2弾

皿屋敷のお菊さんのお話に続いて同じく筑豊の民話をお届けします。

お話の舞台は京都ですが、母里太兵衛は筑豊の武将なので。

 

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黒田節

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天正十八年(1590年)三月一日。

前年十一月より開始した関東の豪族北条氏攻撃の大詰めとして、豊臣秀吉は自ら二十万人の大軍を率いて京都を出立した。

堅城小田原城眼下に、笠懸山(石垣山)へ本陣を置いた秀吉は、得意の長期戦に入り、千利休に茶会を開かせたり、陣中での酒宴、遊芸も自由に許した。

同年七月に城は落ちた。

小田原城に入った秀吉は早速、論功行賞(ろんこうこうしょう)*2を行った。福島正則が有名な名槍「日本号」を拝領したのはこの時期であった。

正則は早速諸将を招き披露の宴を開いた。

黒田家二十五騎のひとり母里但馬守友信=母里太兵衛が主君長政の名代として京都の正則館へ参上したのはこの時である。

当時太兵衛は三十五歳、正則三十歳で共に男盛りであり、共に豪勇豪胆で無双の酒豪と言われていた。

さて遠路はるばる来賀したのが太兵衛と知り、正則は早速、酒盃をすすめた。

「申し訳なきことながら、本日は主君の名代。酒により万一の失態あらば主君のなを汚すもの」太兵衛はそう言って酒盃を拒んだ。並みの大名なら別だが、正則は横紙破り強情大名である。「ああそうか」と納まるはずがない。

「酒敵に後ろを見せるのは卑怯であろう」と言ったから太兵衛は顔色を変えた。

「卑怯とは聞き捨てならぬ、では酒盃を戴き申そう。もし見事大盃をほしたならば褒美に何か一物を所望したいがよろしいか」と正則を睨みつけた。「よい。何なりとも」と正則は答えた。太兵衛は泰然と三杯を飲みほして言った。「日本号を所望つかまつる」

名槍「日本号」いかに酔余の勢いとは言え、大盃三杯であっという間に名槍を見事に飲みとられた正則。

一夜明けて酔いがさめるとさすがに顔色を変えた。

何せ御大将の秀吉公より下賜された品である。

このまますますわけにはゆかぬと、早速太兵衛の元へ使者を立て、辞を低くして返却を頼んだが、太兵衛も強情。武士の二言は大雄正則公の真意と思えぬ。お返しするわけには参らぬというわけである。

「武士に二言なし」戦国を問わず武士の不文律である。

使者は返す言葉もなかったという。

無類の強情者福島正則が頭を下げたと巷間で噂になったほどの名槍「日本号」とは一体どんな槍であったのであろうか。

名槍「日本号」とは

日本号は「正三位の位あり」*3と謳われたその伝来と姿の美しさ、完成度の高さから現存する「大身鑓」の中では究極の存在とされており、多くの写しが制作されている。

もともとは皇室の所有物でした。

室的幕府15代将軍足利義昭に下賜され、その後「織田信長」「豊臣秀吉」に渡り、秀吉より「福島正則」に与えられた。

そして「天下三名槍」の一つです。

「天下三名槍」とはオンラインゲーム刀剣乱舞」や「名探偵コナン」などで知名度があるそうですが。

明治時代にそう定められたようです。

母里太兵衛

母里太兵衛は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。

槍術に優れた剛力の勇将として知られ、栗山利安と共に黒田軍の先手両翼の大将を務めた。黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人である。

母里太兵衛は益冨城の最後の城主として病気で亡くなるまで活躍しました。

 

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福島正則とはどういう人物か?

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で大名です。

賤ケ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)のひとりとしてしられ、安芸国広島藩主として活躍しました。

賤ケ岳の戦いでは大活躍して、七本槍の中でも突出して秀吉から5000石を与えられました。

福島正則は武勇に加えて政治的な経験も豊富であり、日本の戦国時代から江戸時代の歴史に深くかかわっている人物です。

 

黒田節の感想

いっけんずる賢く名槍を呑みとったようなお話にも聞こえますが、あくまで主君黒田長政の名代として、礼儀正しく低姿勢で、一度丁寧にお断りして、それでもしつこく無理を通そうとする、年下で、どうしようもない性格の福島正則を、懲らしめるかのようなやんちゃぶりの母里太兵衛を「タキオン」さんと重ねるのは私だけでしょう。

takion0622.hateblo.jp

 

いかがでしたか?

福岡県の民話シリーズ第2弾でした。

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

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今回も以下の書籍を記事の参考にしました。


ふるさと
筑豊―民話と史実を探る (1981年)

*1:《和紙は漉き目が縦に通っていて横には破りにくいところから》自分の思ったとおりを無理に押し通そうとすること。また、そのような人。

*2:功績や戦績を調べてそれに応じた褒美を与えること

*3:律令制下においては、従三位以上を「貴」と称し、また「星の位」ともいわれ、上級貴族の位階であった。従三位が中納言近衛大将、大宰帥などと官位相当であるのに対し、正三位は大納言相当とされた。勲等との対比では勲一等に値する。

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