「黒田武士」と「日本号]のおもしろいエピソード②
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で始まる黒田節のおはなしの続きです。
豊臣秀吉の家臣で賤ケ岳の七本槍の中でも最強の「福島正則」から見事に、最強の槍「日本号」を呑みとったお話ですが。
主人公のお二人「母里太兵衛」と「福島正則」面白いエピソードと日本一の槍「日本号」の活躍を追ってみたいと思います。
賤ケ岳の七本槍とは
(しずがたけのしちほんやり)と読むそうです。
歴史上で天下分け目の戦いは関ケ原だけではないようです。
織田信長亡き後に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家との合戦である「賤ケ岳の戦い」
は織田信長の勢力を2分する「天下分け目の戦い」だったようです。
これに勝利した秀吉は、亡き信長の権力を継承し天下人への第一歩が開かれました。
この時、両軍は激戦となった。
しかし秀吉側の賤ケ岳の七本槍と後に名付けられた、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元らの活躍により見事に勝利をおさめることが出来たのです。
中でも突出して活躍した、福島正則には名槍「日本号」と5000石が与えられた。
一説には、7人ではなく9人いたともいわれています。秀吉が権力の過大な宣伝に7本槍と名付けた「虚名説」もあります。
虎に噛みとられた名槍
天正二十年三月十三日、秀吉は朝鮮遠征軍十五万八千五百人の軍勢に進発を命じた。
黒田長政もその第三軍として一万一千人を率いて加わっていた。母里太兵衛はその黒田軍団の第一線部隊、二百六十四人の長として出立した。
このお話は朝鮮遠征時の陣中談である。
当時朝鮮には多くの虎がいて、各部隊ともその被害を受けていた。
そこで、諸将は戦いの合い間をみてはさかんに虎退治をやっていた。
ある日のことである。母里太兵衛はたまたま巨大な虎に出会った。
太兵衛は得意の槍をヤッと突き出したのだが、運悪く的がはずれ、逆に虎は槍の口金あたりをガブリとかみついてしまった。(仕損じた)と太兵衛は槍を引こうとしたが、どっこい相手は強力な虎、押しても引いてもびくともしない。それどころか万力のような牙をむき出しに、ジリ、ジリと槍の柄を太兵衛の手元へかみ登って来るではないか。
さすがの太兵衛もなすすべなく、全身脂汗の有様となった。その時である。
「これはこれは太兵衛殿、大分(だいぶ)手に余られたるご様子、ご助勢など仕りましょうかな」
声の主は、これまた黒田藩きっての豪傑、後藤又兵衛であった。
「なんのこれしき、助太刀ご無用」と太兵衛は怒鳴りたかったが、こう事態が切迫した有様では如何(いかん)ともしがたく、太兵衛は助力をこうた。
「承知いたした。そのかわり太兵衛殿、お主の命と引き換えに、”日本号”をちょうだい致すぞ」
太兵衛はカッと頭に来たものの、命にはかえられず、こうして”日本号”は又兵衛の手に渡ってしまった。
太兵衛は「飲みとったと思ったら噛みとられた」と大いに悔しがったという。
又兵衛は日本号の使い手として関ヶ原の戦いでは大活躍します。
後年、嘉穂郡大隈町益富城主として3万石を後藤又兵衛は領したのだが、やがて主君黒田長政といさかいを起こし自ら禄を捨てた。その時、「日本号」は黒田家より出すべきに非(あら)ずと、改めて母里太兵衛へ返却したという。又兵衛の後に益冨城2万石の領主となったのが母里太兵衛であった。
嘉穂郡のもう一人の英雄「後藤又兵衛」とは
黒田二十五騎で黒田八虎の一人。
人望が厚く、戦いにも強い。数々の武勲を残している。
後年は、主君黒田長政とそりが合わず、悲運な人生であった。
地元嘉麻市では、又兵衛饅頭や、地元の日本酒「又兵衛」などの特産品が売られています。
関ケ原の戦いでは、石田三成隊の猛将・大橋掃部(おおはしかもん)を一騎打ちで破る等の活躍ぶりでした。
いかがでしたか?
2回に渡って「黒田節」にまつわるお話でした。
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