信仰と庭園~歴史のかなたに消えた「英彦山大権現」
ここは英彦山神社よりも少し下山した場所にある、「英彦山大権現」という庭園であり信仰のための聖地でもあります。
今の時期は紅葉がとても美しく、きれいに整備された庭園にはとても映えます。
春には桜、そしてツツジ、シャクナゲと季節の花を咲かせては人々を魅了しています。そして同時に信仰の場でもあり、ありがたく立派な観音様や神様の像が立ち並んでいます。
いろんな願い事や、厄除けなど、信仰にあつい方々が訪れます。
入場料や駐車料金はありません。基本的に無人です。
「英彦山大権現」の由来
かつて英彦山には修行に明け暮れる山伏たちが住んでいました。
信仰もあつく、階級もあったようです。
しかし時の権力者には目障りだったのか、かつて織田信長が比叡山を攻めて焼き討ちしたように、英彦山の山伏たちも大友宗麟によって重要な建物など、焼き討ちにあいました。
その後も豊臣秀吉の九州征伐軍に反抗したため、寺社を没収されました。
数々の法難にあいましたが、山伏たちの信仰は益々隆盛で、山伏姿の修験者は九州各藩に檀家を持ち、加持祈祷をして回り、権現信仰を広めていきました。
元和2年(1616年)小倉藩主の細川忠興氏は山伏たちの集会のための講堂として、現在重要文化財になっている泰幣殿を再建しました。
肥前佐賀藩主の鍋島氏も信仰が厚く、寛永十四年(1637年)に銅の鳥居(かねのとりい)重要文化財を英彦山大権現に寄進しています。
明治元年(1868)明治政府が行った神仏分離令が発布され神仏習合の英彦山から英彦山大権現は廃止されました。
修験者のほとんどは山を下りることになりました。
その後、英彦山大権現は歴史のかなたに消えてしまいました。
山伏(修験者)のお墓が所々に存在しています。
美しい庭園がとてもきれいに整備されていました。
英彦山と天狗
英彦山は福岡県と大分県の境に位置し、耶馬日田英彦山国定公園内にあります。北岳、中岳、南岳の三つの山があり、最高峰は南岳で標高は約1200メートルです。出羽の羽黒山や熊野の大峰山と共に、日本三大修験道の聖地として古くから修験道が栄え、山伏の修行の場として知られています。江戸時代の最盛期には「彦山三千八百坊」と呼ばれ、3000人の信者と800の坊舎があったとされています。また、天狗が住む山とも言われ、室町時代の世阿弥元清が作った有名な謡曲「花月」では英彦山が舞台となっています。英彦山周辺では、子供が7歳になる頃に「神隠し」に遭うことが多く、子供を隠すのは天狗だと恐れられていました。「花月」はその代表的な例として語り継がれ、能狂言の題材にもなりました。
ひこいち話という有名な昔ばなしが存在してその中でも天狗が暗躍しています。
「天狗の隠れ蓑」という「ひこいち話」の代表作
非常に有名な物語であり、彦一の代表的な話である。彦一の家の近くに住む天狗は、着ることで姿を消すことができる隠れ蓑を持っていた。彦一はその隠れ蓑が欲しくてたまらなかった。そこで彼は知恵を使い、竹を一本切って遠くを見ているかのように振る舞った。それを見た天狗は「それは何だ?」と尋ねると、彦一は「これは遠眼鏡だ。遠くのものが何でも見える」と答えた。天狗は譲ってほしいと頼むが、彦一は譲らない。すると天狗は隠れ蓑と交換しようと言い、彦一はすぐに竹筒を手放し、素早く隠れ蓑を身に着けた。一方、竹筒を覗いても何も見えず、騙されたことに気づいた天狗は怒るが、彦一の姿はすでに消えていた。彦一はまず家に帰り、妻を驚かせる。調子に乗った彦一は次々と悪戯を思いつき、最終的には酒屋に忍び込み、好物の酒をたくさん飲んでしまった。そして酔っ払った彼は家に帰るとすぐに熟睡してしまった。その間に、妻は蓑をがらくただと思い込み、竈で燃やしてしまう。目を覚ました彦一は蓑がないことに気づき、妻に尋ねると「蓑は燃やした」と言われて驚くが、もう手遅れだった。しかし、残った灰を体に付けてみると、見事に姿を消すことができたので、彼は喜び、まだ酒が飲み足りないのか再び酒屋に向かった。しかし、今度は酒を飲んだことで口の部分の灰が剥げてしまい、彦一の口だけが空中に浮いている状態になった。それを見た酒屋の主人は「お化けだ!」と驚き、彦一を追い回し、最終的に彼は川に落ちて灰が全部流れ、みっともない裸をさらして皆の笑い者になってしまった。
英彦山大権現の美しい庭園はいかがでしたか?
10月8日の英彦山の頂上付近は英彦山大権現から眺めるとうっすらと雪景色がきれいでした。晩秋の英彦山大権現は、とても冷こみます。
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